布団の中で、うつらうつらとしていた時に、先日、友人の直子さんと、「わびさび」について話していたことを思い出し、一体、小説における「わびさび」って、なんでしょうねえとか直子さんは言って、「夕陽が差し込むお風呂にぷかぷか浮いているアヒルのおもちゃのことかもね」とかさらに続けていて、なんだか、直子さんは、一人で納得していたのだが、そのときの、ふにゃーとした顔が、なんだか、直子さんらしくなくて、面白くて、笑いそうになった。「笑いそうになった」というのは、ちょっと大げさだが、多分、布団の中で、ぼくはニヤっとした。布団の中で三十過ぎの男がニヤッとするのは、なんだか、昭和四十年代後半の感じがする。よく分からないけど。そんでもって、直子さんとの会話は、金井美恵子の小説の話になって、金井美恵子とぼくは、同じ誕生日で、ちなみに手塚治虫ともいっしょなんだよね、というぼくを全く相手にせず、古本屋で見つけた中公文庫の金井美恵子の写真が、萩野さんに似てんのよね、とか、単行本が百円で売っていたとか、どぎつい緑色のメロンソーダをちゅーちゅー飲みながら、ぺらぺら喋るのだけど、ぼくは、彼女が着ていた花柄の刺繍のチュニックに目が行っていて、これは高そうな感じがするなあ、などと思っていたら、直子さんが、「そんなにわたしの胸が見たいのか、お前は」と言うので、「無いものは、見えない」と返したら、怒られた。
花柄の刺繍のチュニックと、中央線と、夕焼けと、昔の中高生向けドラマの最終回のひとつ前の回は、情緒的である。
気がついたら、カーテンの隙間から、見える空が白んでいて、結局眠れなくて、音楽でも聴こうかと、レッドツェッペリンの四枚目のアルバムをかけたら、三曲目が朝焼けととてもマッチして、おお、情緒だ、とか思い、直子さんに報告しなければ、とも思ったのだけど、朝っぱらからメールしたら怒られるだろうし、昼にはこの感動も薄れている、というか、多分、忘れているので、ぼくの心の中に大事にしまっておくことにした。鍵をかけて。別にそこまでしなくていいのだけど。
翌日、偶然直子さんを見つけてしまい、挨拶したり会話したりするのが、なんだか、億劫で、気づかない振りをして、通り過ぎた。幸い、向こうも気づいていないようだった。ごめん、直子さん。なんだか、そういう感じも情緒的だなあと思ったのだけど、その時には、やはり明け方のレッドツェッペリンのことは、すっかり忘れていた。
で、ぼんやり、その日は、ひざを抱えてDVDを見ながら過ごしたのだけど、気がついたら、携帯に五件の着信が入っていて、たまげて、おののいた。多分、ドラマの最終回の一つ前の感じだ。よく分からんが。